いぬとねこのいるせいかつ

眠れない夜の頭の中を可視化

「死にたい」と「死にたくない」

1週間のうちの6日はぼんやり死にたいなあ、死ねたらいいのになあと考える。死にたいと死ねたらいいのには全然別物だけど同じものだ。

 

生きる理由とかいう存在しないものを探してどれぐらい経っただろう。母のおなかでトツキトオカを過ごして生まれたから生きている。この世にいる意味は特にないことを分かっているし、強いて言うなら子孫を残すのがヒトとしての意味なんだろう。それだけなのは分かっているのに、何かを成し遂げるために生まれてきたのだと信じてやまない。私は子供は絶対にいらないから、ますます分類的にはいらないタイプの生命体だ。

ではなぜ働いてお金を稼いで税金を納め、貰えもしない年金を払い、老い、そして死んでいくのか。昔、人に悩み事を相談したら「そんなの地球規模で考えたらちっぽけなことだよ」と言われた。じゃあ地球規模で考えれば地球もヒトもいずれ滅亡するのに子孫を残す意味とは?

 

私はいとも軽々しく「死にたいなあ」「死のうっと!」なんて口にする。人から見たら不快な人間だろうと思う。死を軽視していると思われても仕方がない。確かに本当に死にたいとも死のうとも思っていない。けれどその一瞬はこの世から姿を消したいと思っているのは確か。

 

この世から姿を消す、とは何なのか。

部屋に引きこもること、誰も私のことを知らない場所にいくこと。死ぬこと。どれも同列に思える。部屋と台所の往復でだれかが買ってきたご飯を食べて延々と眠る日々は、そんな私はあのときこの世に存在していたと言えるのか。誰も自分のことを知らない社会は「この世」なのだろうか、どうだろう。

 

でも、私は死にたいし全然死にたくなんかないのだ。バンドの新曲を待ち望んでいるし少女漫画の続刊も読みたい。愛猫と少しでも長く一緒にいたい。好きな人がほしい。欲ばかりで、でもだから私は生きている。逆にいうと、私は好きなものが全部無くなったときの自分が怖い。だから増やす。好きなものの、人の輪を広げる。それだけだ、私が生きている意味は。

 

昨年大きな地震にあった日、抵抗出来ない揺れに焦りながらも「ああまだ死にたくないなあ」と思った。その時好きだった人に好きだ、ってまだ言ってないなあって呑気なことを考えている自分がすこし可笑しかった。死にたくないと思った自分に驚いた。でもそれが全てだとも思った。

 

命があることがどうしても苦しくなることがある。生きてるからこうなってるんだって思うと死にたくなる日もある。でも好きなものが続く限り私は死なない。死ねない。不慮の事故とかは分からないので信号は守って周りをちゃんと見ながら歩こうね。いつか自分の意思で満足して命の幕引きができたらいいなあ。それが将来の夢です。