いぬとねこのいるせいかつ

眠れない夜の頭の中を可視化

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本当は美しいレースやフリル、チュールを身に纏って365日生きてゆきたい。

美しいもの、退廃的なもの、儚く脆いものに強く惹かれます。だけど、惹かれるが故に中途半端な気持ちで踏み込むべきではない、この精神とこの外面で、世界を汚してはいけないと思う。私には似合わないほど美しいあの世界。

私は美しい服に見合った私を365日維持することは不可能です。1年のうち30日と言われてもおそらく無理です。時間配分が致命的に出来ないので、自分がこの服ならこうあれと望むメイクやヘアにするに至らず着る服を変えた経験など五万とあります。もしくは私を服に追いつかせる段階で何度も自分に絶望し、外に出なくなってしまうでしょう。そこまで想定がついている。そして私が素敵な服に追いつくことはないのだろう、とも思います。これは私の、私自身の在り方の問題だけれど。

 

強い女の子が好きです。負けず、曲げず、凛としている。好きなものは好きだっていうけど嫌いなものにはわざわざ言及しない、そんな女の子が好きです。この好きは、こうなりたいの上位互換。こうなりたい、なれない、すごい、妬ましい。全部含めた、好き。私は「他人からの評価」を根っこにして生きてしまっているので、強がったところで弱さがボロボロはみ出して情けない姿を晒してしまう気がして、それが怖くて負けて曲げてヘラヘラしています。今までずっと。これからも、おそらく。強い女の子がいつ泣いているかなんて想像もせず、ただこうなりたいと喚き続ける自分は軽蔑に値する。

 

幼少期に自分で洋服を選んでいいよと言われた日のことを鮮明に覚えています。お気に入りのピンクのトップスとピンクのズボンを着て母に見せに行ったら笑われたあの日のことを。ピンクが好きだと言えなくなってずっと水色が好きだって言っていた幼き日の私が心の中にまだいるのです。もう赤やピンクが好きだと言えるようになったのに。自分の好みでお洋服が買えるようになったのに。笑う母はいないのに。

最近になってようやくレースがたっぷり使われたワンピースやスカートを少しだけ、本当に少しだけ着るようになりました。恥ずかしいから特別な日だけに。前日に明日はこれを着ようと心に決めて、メイクやヘアを考える時間がとても愛しい。これが心の余裕か、と今更ながら実感するのはとっても優しくて痛いものです。

出来れば毎日そうありたいけれど、「こんな顔面でこんな素敵なお洋服着る資格も意味もない」発作が起こるのではないかとビクビクして、または時間配分が出来なくて、デニムにTシャツにパーカーの3点セットでこの数年を生きています。稀にある特別な日に、特別なお洋服を着る。それが私の生き方なんだろうと思うのです。

 

自分が可愛ければ、その一言で全てを終わらせてしまうのは馬鹿らしくてその価値観は古いし命は美しいのだと思っているけれど、やっぱり美醜で生きづらさは変わる世の中ですから、美しいに越したことはないですから。

自分で自分に呪いをかけ続けているのは分かっているけど、分かっていて取り除けないのです。根源は私自身ではない、別の一個人だから。一生呪われているのかもしれない。私を全肯定してくれる人がほしいけどそれは一般的には親と言うのです。知っています。誰かに親の役目を押し付けるほど図々しくはなれないし、肯定し続けることは負担なのでその誰かは親ではないからいつだっていなくなりうる。自分で自分を肯定すればするほど、波のように同じくらい否定もしてしまう。どうすればこの堂々巡りから抜け出せるのでしょうか。