いぬとねこのいるせいかつ

眠れない夜の頭の中を可視化

親は呪いか

私にとって母は呪いです。

誰にも言ったことはないけれど、できれば苦しんで死んでほしい。

神様、見ていますか?

私はここです。母は、あそこです。

 

誰にも言ったことないってわざわざ書いたけど、そりゃあ当然。

美しい国ニホンでは親は敬う対象であるし、家族は愛し合うものだから。

苦しんで死んでほしいなんて言ったら、どんな目で見られるかぐらい分かっています。

私の周りの人は優しいから、きっと否定せず「うん、そうなんだね」と言ってくれるでしょう。そして私から距離を置くことでしょう。

どうして?

 

どうして酷いことをしてくる人間を、ただ血の繋がった親だからという理由で許さねばならないんだろう。

許さなくていい、ということを知っています。だけどみんな、そう言ってはくれないのです。

 

母とは法事で再会しました。

どんな言葉を掛けられるかと思ったら、「どうして私の連絡を返さないんだ」と怒鳴られました。

私は当時LINEのアカウントを変えたばかりで、母はどうやら過去に使っていたアカウントにメッセージを送っていたようでした。

そんな事情を話す隙もなかった。

もし新しいアカウントを母が知っていたとしても、連絡を返す理由は「怖いから」以外にないことを、連絡を返さない理由は「関わりたくないから」以外にないことを、母は理解できなかったでしょう。

なぜなら母は、私の母だから。

理解されて、許されて当然だと思っているのでしょう。

 

母は未だに平然としています。

私の誕生月に関連するお土産を人伝いに渡してくるぐらいには。

私は恨んでいます。

そのお土産を捨てるくらいには。

私は混乱しています。

捨てるかどうか2週間悩んだくらいには。

 

母にだって事情があった。

大人になって知らされたこともたくさんあります。

母が一人の人間であり、私の母であること。

世間の意見。

母が私に今までしてきたこと。

 

母が何事も無かったかのように無神経に関わろうとすればするほど、水に流すことができない自分が醜いような気がして、だから私は憎いのです。

私が悪いのではないかと、未だに思考を縛り付けてくる母のことが。

 

母のようになりたくないと思うたびに、人間の脳は否定形を理解できないという話を思い出します。

だからそう思えば思うほど、否定したい対象を意識して似ていくのだ、と。

私は1歩ずつ母に近付いている。

自分よりも弱く逆らえない人間を傷つけて、それを許されて当然だと思うような人間になってしまう。

だから私は誰かの母親にはなれない。

 

今の恋人とお付き合いをはじめて間もない頃、将来の別れ話をしました。

「私は子供を持たないけど、それをあなたに押し付ける気はない。

あなたが親になりたいと思ったとき、もし私がまだ隣にいたのならすぐに別れます。

だから、言ってね。」

恋人は困った顔をしながらも、分かったと言ってくれました。

だけど本当にその時が来るまで、この切実さは分からないのだろうとおもいます。

そしてこれを私は誠実さだと思っているけれど、選択を押し付ける卑劣な行為だということを分かっています。

 

母は呪いです。

愛し方も愛され方も、自分の在り方も、誰かと家庭を持つということも、すべてに影を落とす。

まだ私の中で消化しきれていないうちは、誰かと生きていきたいなんてワガママなんだろうと思います。

この思考すら、呪われているということも本当は分かっているのにな。

 

自分を制御するということ

自分のコントロールがすこぶる苦手です。昔から、今も。爆発すると物に当たってしまいます。頭が「全部壊してしまいたい」でいっぱいになって、手に持っているものを投げることから始まり、壁を蹴ったり、気付けば一心不乱に家の壁をカッターで切り続けていたこともあったり。爆発は5〜6年に1回あるかないかぐらいで、ここ数年は落ち着いていたのに昨日やってしまいました。

 

昔爆発したとき、2回連続でなぜかe-maのど飴を持っていて、それ以来e-maのど飴がなんだか怖いです。たまたま持っていただけなのに。人にもらったことはあっても自分で買ったことはない気がするなあ。2回ともぶん投げて散らばったのど飴を見て父が困った顔をしていたのを鮮明に覚えています。これこそいらない記憶。

 

自分の中で気付かずいっぱいいっぱいになって、それをつつかれてパンッ!と弾ける感じが久しぶりで、でも自分が今正常じゃないと理解出来ていた分は成長しているのかなあと破壊欲と戦いながら違う頭で考えていた。咄嗟に手に持っていた携帯を投げそうになって、グッと堪えられた自分を抱きしめてあげたいなあ。前回はiPodを投げてたまたま割れずにすんだ記憶を思い出した。予備校の教科書もプリントも全部破りたかったけど、自分が落ち着いたとき困るだけだって思ってグッとこらえた。今回は何も壊さなかった。偉いなあ。

自分を守るためにこの3年間ぐらいをかけて大切なもので周りを固めてきたから、壊していいものがなくて、部屋を見渡すかぎり全部大切で守りたいものしかなくって(あとは壊しようがないような服とかね)、誇らしくて虚しくて悲しくて苦しかった。そして、こうなってしまったときに壊す対象が自分自身ではないということが救いであり、なおかつ最悪だなと思った。

 

そして久しぶりに無の状況になってびっくりした。こんなに何も無いことあるのか?って。気付いたら1時間も経ってるんだもの。頭の中に流れるノイズを集中して聞いてたら1時間経ってた、みたいなよく分かんないそういうの。

そうなると私いつまでも同じ体勢で同じ点を見つめて立っていられるんです、昔から。癖というか身に染み付いたものというか、昨日は姉が話しかけてきていて、それが分かっていて答えずにずっと壁にかけたワンピースの柄を見ていた。我ながら怖いな。この感覚になるのは本当に久しぶりで、母に怒られてるときはいつもコレだったなあなんて思い出しながら突っ立っていました。異常。バグ。そのとき頭は目まぐるしく動いていて、多分身体中の全エネルギーを頭に使っているから行動不可になっているんだと思います、知らんけど。

 

アウトプットが自分自身の整理に繋がる私にとって、頼れる仲のいい大人が周りにいないことが自分自身が想定していたよりも大きなストレスだったんだと思う。難しいな、生きるの

 

✖️

本当は美しいレースやフリル、チュールを身に纏って365日生きてゆきたい。

美しいもの、退廃的なもの、儚く脆いものに強く惹かれます。だけど、惹かれるが故に中途半端な気持ちで踏み込むべきではない、この精神とこの外面で、世界を汚してはいけないと思う。私には似合わないほど美しいあの世界。

私は美しい服に見合った私を365日維持することは不可能です。1年のうち30日と言われてもおそらく無理です。時間配分が致命的に出来ないので、自分がこの服ならこうあれと望むメイクやヘアにするに至らず着る服を変えた経験など五万とあります。もしくは私を服に追いつかせる段階で何度も自分に絶望し、外に出なくなってしまうでしょう。そこまで想定がついている。そして私が素敵な服に追いつくことはないのだろう、とも思います。これは私の、私自身の在り方の問題だけれど。

 

強い女の子が好きです。負けず、曲げず、凛としている。好きなものは好きだっていうけど嫌いなものにはわざわざ言及しない、そんな女の子が好きです。この好きは、こうなりたいの上位互換。こうなりたい、なれない、すごい、妬ましい。全部含めた、好き。私は「他人からの評価」を根っこにして生きてしまっているので、強がったところで弱さがボロボロはみ出して情けない姿を晒してしまう気がして、それが怖くて負けて曲げてヘラヘラしています。今までずっと。これからも、おそらく。強い女の子がいつ泣いているかなんて想像もせず、ただこうなりたいと喚き続ける自分は軽蔑に値する。

 

幼少期に自分で洋服を選んでいいよと言われた日のことを鮮明に覚えています。お気に入りのピンクのトップスとピンクのズボンを着て母に見せに行ったら笑われたあの日のことを。ピンクが好きだと言えなくなってずっと水色が好きだって言っていた幼き日の私が心の中にまだいるのです。もう赤やピンクが好きだと言えるようになったのに。自分の好みでお洋服が買えるようになったのに。笑う母はいないのに。

最近になってようやくレースがたっぷり使われたワンピースやスカートを少しだけ、本当に少しだけ着るようになりました。恥ずかしいから特別な日だけに。前日に明日はこれを着ようと心に決めて、メイクやヘアを考える時間がとても愛しい。これが心の余裕か、と今更ながら実感するのはとっても優しくて痛いものです。

出来れば毎日そうありたいけれど、「こんな顔面でこんな素敵なお洋服着る資格も意味もない」発作が起こるのではないかとビクビクして、または時間配分が出来なくて、デニムにTシャツにパーカーの3点セットでこの数年を生きています。稀にある特別な日に、特別なお洋服を着る。それが私の生き方なんだろうと思うのです。

 

自分が可愛ければ、その一言で全てを終わらせてしまうのは馬鹿らしくてその価値観は古いし命は美しいのだと思っているけれど、やっぱり美醜で生きづらさは変わる世の中ですから、美しいに越したことはないですから。

自分で自分に呪いをかけ続けているのは分かっているけど、分かっていて取り除けないのです。根源は私自身ではない、別の一個人だから。一生呪われているのかもしれない。私を全肯定してくれる人がほしいけどそれは一般的には親と言うのです。知っています。誰かに親の役目を押し付けるほど図々しくはなれないし、肯定し続けることは負担なのでその誰かは親ではないからいつだっていなくなりうる。自分で自分を肯定すればするほど、波のように同じくらい否定もしてしまう。どうすればこの堂々巡りから抜け出せるのでしょうか。

「死にたい」と「死にたくない」

1週間のうちの6日はぼんやり死にたいなあ、死ねたらいいのになあと考える。死にたいと死ねたらいいのには全然別物だけど同じものだ。

 

生きる理由とかいう存在しないものを探してどれぐらい経っただろう。母のおなかでトツキトオカを過ごして生まれたから生きている。この世にいる意味は特にないことを分かっているし、強いて言うなら子孫を残すのがヒトとしての意味なんだろう。それだけなのは分かっているのに、何かを成し遂げるために生まれてきたのだと信じてやまない。私は子供は絶対にいらないから、ますます分類的にはいらないタイプの生命体だ。

ではなぜ働いてお金を稼いで税金を納め、貰えもしない年金を払い、老い、そして死んでいくのか。昔、人に悩み事を相談したら「そんなの地球規模で考えたらちっぽけなことだよ」と言われた。じゃあ地球規模で考えれば地球もヒトもいずれ滅亡するのに子孫を残す意味とは?

 

私はいとも軽々しく「死にたいなあ」「死のうっと!」なんて口にする。人から見たら不快な人間だろうと思う。死を軽視していると思われても仕方がない。確かに本当に死にたいとも死のうとも思っていない。けれどその一瞬はこの世から姿を消したいと思っているのは確か。

 

この世から姿を消す、とは何なのか。

部屋に引きこもること、誰も私のことを知らない場所にいくこと。死ぬこと。どれも同列に思える。部屋と台所の往復でだれかが買ってきたご飯を食べて延々と眠る日々は、そんな私はあのときこの世に存在していたと言えるのか。誰も自分のことを知らない社会は「この世」なのだろうか、どうだろう。

 

でも、私は死にたいし全然死にたくなんかないのだ。バンドの新曲を待ち望んでいるし少女漫画の続刊も読みたい。愛猫と少しでも長く一緒にいたい。好きな人がほしい。欲ばかりで、でもだから私は生きている。逆にいうと、私は好きなものが全部無くなったときの自分が怖い。だから増やす。好きなものの、人の輪を広げる。それだけだ、私が生きている意味は。

 

昨年大きな地震にあった日、抵抗出来ない揺れに焦りながらも「ああまだ死にたくないなあ」と思った。その時好きだった人に好きだ、ってまだ言ってないなあって呑気なことを考えている自分がすこし可笑しかった。死にたくないと思った自分に驚いた。でもそれが全てだとも思った。

 

命があることがどうしても苦しくなることがある。生きてるからこうなってるんだって思うと死にたくなる日もある。でも好きなものが続く限り私は死なない。死ねない。不慮の事故とかは分からないので信号は守って周りをちゃんと見ながら歩こうね。いつか自分の意思で満足して命の幕引きができたらいいなあ。それが将来の夢です。

 

すきなひとのはなし 終

好きな人なのか、好きだった人なのか分からない人に連絡をして、新婚生活どう?と鎌をかけました。半分認めてほしいような、半分否定してほしいようなそんな気持ちで。返ってくるまでの恋のトキメキではない胸の疼きを持て余している時間が空しかった。

 

返事は、なぜ知っているのか?という問いでした。なぜだろうね、不思議だね。なぜ知らないと思ったの?

問いに問いで返してきたことになぜか悲しくなって、全部ぶちまけてしまおうか、当たり障りのない理由や自分へのデメリットなんか考えずに素直に吐き出してしまおうか。そう思いました。でもそれじゃ迷惑をかけてしまう人の数が多すぎる。私は臆病で現実主義者なので結局誰のことも傷つけられませんでした。自分をえぐったほうがはるかに優しくて尊いと思いました。こんなところにさらけ出している時点でそれはもう本来の意味を成さなくなってしまったけれど。

 

結局は人から聞いたのと勘だよ、なんて当たり障りのない返事をして、新婚生活はどうか?に対する答えが返ってきたのはそのあと。

「女の勘はすごいな、楽しいよ」

女の勘、という言葉にどうにも苦しくなりました。彼は私を女だと認識していたんだと思って、そんな当たり前のことに泣けました。極端な話、彼に人間というカテゴライズで見られているのだと思っていたから。そんな意味はないのは分かっていてもこんなことを考えてしまう面倒な人間。そして女であるということはときにひどく苦しいことなのに、好きな人にならそう思われたかった自分の浅ましさにも泣けました。ねえ好きだった人、好きな相手にしか女の勘は働かないよ。

新婚生活が楽しいだなんてそんな1+1=2みたいなことはどうでもよかった。ただ打ちひしがれたかっただけです。分かっていることを再確認しただけです。

 

今じゃすっかりこうやってポエムというエフェクトをかけてキーボードをぱちぱち叩いているけれど、実際はメンがブレした。

頼ることしかできないのにそれが下手くそで、なにも言われずとも(ああめんどくさがられている)と思う。でも頼らないことはできなくて、あるときにいきなり拒絶してしまう。あなたに頼る私が嫌です、なんて言って。きっと返してほしい言葉は「迷惑じゃないよ、頼ってよ」

実際はそういう言葉をもらっても意固地になって「もういいです、ごめんなさい」ってなるし、突き放されたらなんであんなこと言ってしまったんだろうってまた病むし。

人になるだけ頼らずに生きていこう、と毎度毎度思うのです。おもうだけ。一生同じことの繰り返しなのかな、と思ってしまう。メンブレはする、自分で感情の処理ができない、だから手伝ってもらう。普通に感情の処理の仕方を学べよ、って話ですよね、わかります。衝動的な自分になっていることは自覚できるのにそれをコントロールできない自分が嫌です。

 

 

タイトルにもあるように、もう彼の話を書くのは終わり。次に好きな人ってワードがでてくるのは違う人の話です。サヨウナラ私の恋心

 

 

 

 

 

 

 

雑記

もう気にならないと思ってたし、もういいやって思ってたのになあ

好きな人に連絡して終わらせようって思ってたんです、というか思ってるんです。でもできない。どんな未来を想定しても納得する結末にならない。私が何を求めててどうなったら終わらせられるのか、見当つかないんです。私が全部知らないふりをして終わらせるか感情的になって一方的に怒って終わるか、それしか見えなくて、でもどちらも望んでいない終わり方なのです。

 

無理に終わらせる必要はないという人もいるけれど、じゃあ無理に終わらせられたこの恋の行方はどうなるんですか。恋は終わっているのに感情は終わらせない、なんてそんな残酷なことがありますか。苦しむしかないということですか、神様はいますか?

答えのない問いを誰ともわからない存在にぶつけ続けています。誰に?自分に?彼に?神に?それとも、あの人に?

 

誰も答えられないのが分かっているのに私は色んな人にこんなことを尋ねます。

「愛って何?恋ってなに?私にとっての彼は、彼にとっての私はなあに?」

困らせていることに気づいて、そして謝るのです。ごめんなさい、そんなことが分かったら誰も苦労しないね、なんて言って。そのたび私の周りの人たちは優しいので、何も言えなくてごめんねって謝ります。その繰り返し。何がしたいのかは分からないけど、確実なのは私が皆に甘えているということ。ただ私が傷ついているということを知ってほしいだけなのかもしれない、それだけの動機で色んな人を困らせ、悩ませていることを自覚してなお改める気はない自己愛の強さにもまた辟易するのです。辟易(へきえき)とは呆れてうんざりするという意味です。

 

私はこの文章を、自分の吐くこういった文章を自嘲的にポエムと呼びます。だけど人にそう呼ばれるのは嫌です。感情を隠して生きることを美とする人がいるように感情的に生きることを私は美だと思っている。だけど私のそれはそれではないのです。

私の好きな人(恋愛的な感情ではない)は「自嘲的なポエム」を好まないと言っていた。自分の感情を吐き出した、ただそれだけの文章をポエムという言葉でくくるのは気に食わない、と言っていたような気がします。一理あるなと思いながら私はポエムという言葉にくくってしまって何かから、おそらく自分から逃げています。

 

私は私が一番怖い。自覚がある衝動が、止められない反動が、抑えようとすればするほどいつかストッパーを破壊して出てきてしまう。SNSなんかなくなればいいと思いながらも救われていることがどうしようもなく気持ち悪く感じる。どこの誰かも知らない人が苦しんでいることが救いになるなんて狂っているとしか思えない。だけどわたしは正常です。みんなこんなものです。ただわたしはそれを発散させるのが苦手なだけです。そうでしょう、そうですよね、生きるのが下手くそなだけです。って言っとけば大丈夫って知ってます。異常なフリも正常なフリも両方とても上手でしょ?なのになんでこんなに生きづらいんでしょうか。神様はいますか?

 

 

 

平成末のキロク

好きな人が結婚する。もしくはもう既にした、らしい。好きな人のことなのに時系列すら分からなくて、これは、この気持ちはいったいなんなんだろう、と考えてしまう。

 

以前から、彼のどこが好きなの、と聞かれても明言できない自分がいた。どこがって、うーん、それは分かんないけどでも全部好きだよ。全部を知らないのに全部が好きだなんて、どれだけ厚かましい話なんだって今じゃ笑えるけど、その時の私は、このあいだまでの私はそれが真実だと思っていたし、実際それでよかったのだ。知らないことに満足していて、だから結婚も知らなかった。知らされなかった。知れなかった。確証のない噂をひとつずつ事実を確認していくことしか出来なくて、じゃあいっそ彼から聞いたほうが幸せだったな。

 

失恋って何度かしてきた気がするけどさすがに結婚ってパターンは初めてで、だから色んなことを考えた。

そもそも越えてはいけないラインを越えたのは私。それに呼応したのは彼。好きって言わなかったのは私。でも好きって言えない状況でどうしたら良かったのかな。やっぱりそもそも踏み荒らした私が馬鹿だったんだな。でもじゃあ、彼のあの言動っていったい?

ずっとこれをぐるぐるぐるぐる考えて、でも答えは出なかった。あの言葉さえなければ、あの行動さえなければ、私が馬鹿だったで終わらせられた。

 

 

そんなこと考えすぎてふとこれは「執着」なんじゃないかな、って。私にしては長い間ずっと好きだから結婚しますなんて許せないんじゃないかなあ、この長い月日を除いて考えた時にはたして彼はマトモな人かなあ、あの時の私へのあの言葉は適切だったかなあ。

見逃していた少しの違和感をひとつひとつ思い出していたら、どんどん好きってなんだっけ、私の好きってこれじゃない気がする。そう思った。

もちろん全部が全部執着だとは思わないし、もしかしたらこれ以上傷つかないための自己防衛かもしれない。だけど今はそれ以上のことは考えたくないし、考える必要もない。私が今最優先すべきなのは自分のケアであって、相手の思惑とか結婚相手とか、そういうのじゃないのだ。自分勝手でワガママだけど、それは彼も同じこと。

 

 

彼は平成に置いてきました。

好きな音楽があればそれでいいんだって思った日のこと、鮮明に、克明に残したいから早急に更新するつもり。あくまでつもりだけど。

 

結婚おめでとうなんて一生言えないし、あの人を選んだあなたのことを心から軽蔑します。でも沢山助けられたな、楽しかったな。全部が嘘にはならないってことが苦しいな。

お前だけ幸せになれると思ってないので、よろしくお願いします。幸せになる確率10%以下です。

 

話聞いてくれた人達ありがとーっ先輩特にありがとーっ一緒にいてくれてありがとーっ